
はるばるやってきました、MIHO MUSEUM!
細く曲がりくねった山道は少々胃にこたえましたが、その苦しみは会場ののぼりが和らげてくれます。
若冲の作品は先日初めて目の当たりにしましたが、美しい彩色画や躍動感あふれる水墨画に心打たれました。
今回はもっと素晴らしい体験ができることでしょう。


来館者の中には外国人もいて、スタッフが流ちょうな英語で対応していました。
バス停の近くにあるこの建物はレセプション棟。
美術館棟は別の場所にあり、数分おきに送迎車が発着しています。
徒歩でも10分ほどでだどり着くと言われたので、景観を楽しみながら歩いていくことにしました。





上り坂を越え、長いトンネルを抜けると、いく筋もの巨大なワイヤーで支えられた橋が現れました。
橋の上には山々に囲まれた雄大な景色が広がり、まるで自分が別次元にトンネルを伝ってやってきたような錯覚を覚えます。
それもそのはず、この美術館は陶淵明の桃花源記に描かれた仙境の楽園、桃源郷をイメージして設計されました。
設計したのはルーブル美術館のガラスのピラミッドなどで世界的に知られるI.M.ペイ氏で、美術館棟にも彼の技は生かされていました。



建物は北館と南館に分かれていて、その容積のほとんどは地中に埋まっています。
南館にはシルクロードの周辺国(エジプト、ギリシャ・ローマ・アジアなど)の古代美術が展示されていました。
北館は主に日本美術が展示される場所で、若冲の展示場もそこにありました。

会場には全国の美術館や個人から集められた100点あまりの作品のうち、50点ほどが展示されていました。
9/1〜12/3までを6期に分け、各期ごとに少しづつ入れ替えながら全作品を紹介していくようです。
こんな山奥で催されているにもかかわらず、たくさんの来館者でにぎわっていました。
印象に残ったのは、作品を見た方が「スゴイ、スゴイ」と声をあげていたこと。
ルーブル美術館展のような傑作ぞろいの展示会でもこれほど声をあげる人はいなかったですね。
奇想と画家と呼ばれる彼の想像力豊かな画風が現代の日本人の感性にマッチしていたということでしょう。
《櫟に鸚哥図》

冬の訪れとともに葉を枯らした櫟(クヌギ)の枝に南国風の鸚哥(インコ)がとまっています。
誰に飼われていたのか、厳しい冬を乗り切れるのか、そんな想像をかき立ててくれる版画です。
本作が摺られた1771年頃には、鈴木春信らによって創始された錦絵の影響で色鮮やかな版画が広まっていました。
ちなみに、若冲の彩色版画は現在6点しか確認されていないそうです。
《月夜白梅図》

縦横無尽に枝を伸ばして生命力を誇示する白梅を満月がやさしく照らしています。
30代後半から40代初めの頃に描かれた作品で、若冲の代表作である動植綵絵(どうしょくさいえ)とのつながりを思わせます。
動植綵絵は彼が42歳から10年あまりもの歳月を費やした彩色豊かな30幅にもおよぶ花鳥画。
現在は宮内庁三の丸尚蔵館に保管されており、つい最近まで東京国立博物館の皇室の名宝展で紹介されていました。
《布袋唐子図》

杖をついた太鼓腹の布袋(ほてい)のまわりで3人の子供が親しげにたわむれています。
薄く開いた2つの目が別々に2人の子供を見つめていて、ユーモラスで暖かみのある作品になっています。
布袋は唐末期の禅僧がモデルで、施しを受けた物を入れるための大きな袋が名前の由来だと言われています。
唐子(からこ)は中国風の髪型や服装をした子供を指すようです。
《双鶏図》

雌鳥をかばって雄鳥が目の前の敵に立ち向かっていくところでしょうか。
1795年、80歳の頃に描かれたものですが、勢いある大胆な筆致は見るものを圧倒させます。
若冲は鶏の絵を得意としていて、85年の生涯で数多くの鶏を描いたそうです。
でも、当日は本作以外に鶏の作品はありませんでした。
《象と鯨図屏風》

勢いよく潮を吹く鯨に鼻を高々と持ち上げる象。
陸と海の王者が自分のスタイルで挨拶をかわしています。
若冲が80歳に描いた本作は、2008年に北陸地方で存在が確認された屏風画です。
鯨に背ビレが生えてることや、象のコミカルな顔つきなどをみると彼が想像力を働かせて描いたことが分かります。
《鳥獣花木図屏風》
(「若冲と江戸絵画」展 公式ブログフォトライフからお借りしました)自然界の鳥や動物、はては狛犬のような想像上の生物までが一同に介して命の喜びを謳歌しています。
象は背中にマットが置いてあるので、人間から逃げてきたのかもしれませんね。
モザイク画風や原色バリバリの色づかいが、異国的な雰囲気を漂わせています。
一双の升目の数はなんと約86000個もあるそうで、会場には図柄の異なる屏風がもう一双展示されていました。
《売茶翁図》

売茶翁(ばいさおう)は江戸時代の黄檗宗(おうばくしゅう)の僧。
ある時、この売茶翁が世話になっていた相国寺の大典和尚と一緒に茶を煮たのですが、このとき売茶翁の注水(ちゅうす、水さしのこと)に「大盈若冲」という語句を含む短い詩が書かれました。
老子の第45章にちなんだ「本当に満ち足りているものは、まるで空っぽのように見える」という意味の語句で、若冲の名前はこれに由来するといわれています。
売茶翁や大典和尚が授けたのか、若冲がねだったのかは知りませんが、「あたし脱いだらすごいんです」的な自信がうかがえます。
《石峰寺図》

若冲は晩年、京都深草にある石峰寺の門前に住み、1枚の絵を米1斗で描いていたそうです。
彼は得た収入で石工たちに石仏を彫らせ、裏山に釈迦の一代を描いた世界を築こうとしました。
それが石峰山に残る五百羅漢像です。
本作には彼の想い描いた仏教のテーマパークが記されているようです。
京都の青物問屋に生まれた若冲は、1800年に85歳でその生涯を閉じました。
旺盛な好奇心と創作意欲で、晩年になっても新しいことに挑戦し続けたそうです。
また、人付き合いの苦手なオタクだというイメージを持たれていますが、必要があれば世の雑事もこなせたそうです。
まあ、オタクだとしても亡くなるまで大好きな絵を描き続けられた訳だし、一見すると空っぽという意味の"若冲"を名乗っていたんだから、彼もそう呼ばれて本望でしょう。